「D」
扉のない入り口をくぐり、エルは建物に足を踏み入れた。日の光が遮られ、視界が薄暗くなる。それ以上に陰のある雰囲気が、エルの全身を包み込んだ。
数知れない無念の思い、声にならない声が、空気に混じって漂っているような感覚。思わず止めてしまった足を、エルは前へと動かした。石造りの床に、ブーツの音が響く。
頑強な石で作られた建物は、破壊から千年経った現在も、その姿をグラストヘイムに留めている。だが、かつて壮麗であったはずの修道院は、今や魔物の巣窟と成り果てているのだった。エルも何度か、以前に訪れたことがある。もっとも、その時はたいてい、他の人と一緒に来ているのだったが‥‥今、エルの側には誰もいない。
通常、グラストヘイムに来るなら、パーティーを組んだ方が遥かに安全だ。それは、エル自身にもよく分かっていることだった。あえて、ひとりで来たのは、自分の力を試すためだ。誰にも頼らない状態で、何とどこまで戦えるか。
(ここでは主に不死系のモンスターが出てくる‥‥毒は使えないから、単純に力押しで)
考えながら歩くエルの視界に、動くものが映った。腐った身体を引きずり、一体のグールが近づいてくる。エルは無造作に、グールの前へと足を進めた。
すぐに距離が詰まる。目の前に来た人間に、グールは食らいつこうとする。緩慢に仰け反ったその首に、鋭い一撃が突き刺さった。ぐらり、とグールの身体が揺れる。だが何事もなかったように、グールは口から体液を吐いた。エルは素早く一歩を踏み出し、体液を避けつつカタールを振るう。脇、胸、腹と連続して攻撃を叩き込み、頭蓋骨を横から一閃したところで、勝負がついた。
うめき声を上げながら、グールの身体が崩れ落ちる。低い声は、石造りの壁に跳ね返り、虚しく辺りに響いていった。床に落ちたヒトの輪郭が、跡形もなく消えていく。ドロップ品がないことを確認すると、エルは視線を上げた。
生きる者を殺し、死せる者を滅ぼす。それが暗殺者に課せられた役割。たとえこの場所が聖域であろうと廃墟であろうと、街であろうとも、変わることはない。――そうやって、考えること自体が、感傷的なのかもしれないけれど。
ふと自嘲の息をついて、エルが足を進める。壊れた天井から、一筋の光が差し込んでいた。何気なく通りすぎたところで、不意にブーツの足音が止まる。視線の先、暗闇に溶けそうな柱の影に、何かがいた。
「‥‥‥‥」
声が聞こえる。それは聞き覚えのある声で、エルは思わず眉を寄せた。確かに記憶に残る、忘れられない声――だが。
「‥‥‥‥ィア」
柱の影から、声の主が姿を現す。質素な服の女性が、優しい笑みを浮かべていた。エルの唇から、言葉が滑り落ちる。
「‥‥お母、さん?」
女性はゆっくりと頷き、緩く両手を広げた。招くように、抱きしめるように。
「ごめんね、ひとりぼっちにして‥‥もう大丈夫よ、さあ、いらっしゃい」
「お母さん‥‥」
確かめるように、エルが呟く。母は死んだはずだ、だからあれは幽霊に違いない‥‥けれど、そこにいるのは母だ。声も姿も笑顔も、覚えている限りの母の姿だ。もう一度会いたいと願い続けていた、母の。
「どうしたの‥‥? さあ、リディア‥‥」
母が名前を呼ぶ。エルは駆け出した。真っ直ぐに、彼女の胸に飛びこむ。抱き締められる瞬間に、目を閉じた。
――鈍い音が、ふたりの間で生まれた。エルは視線を落とし、腹から生えた、銀の刃を見つめる。
自らが母の腹に突き立てた、カタールの刃を。
「リ‥‥ディ‥‥」
消え入りそうな声に、エルの声が重なった。
「あなたは、誰ですか?」
目の前にある顔を見上げ、エルは彫像のような表情で続けた。
「リディアの母は死にました。そして――私に母はいません」
刺した刃を引き抜き、もうひとつの刃で首を薙ぐ。母の姿をしたものは切り裂かれ、後ろによろけた。エルが地を蹴る。音よりも速く斬撃が閃き、銀色の軌跡を描く。相手は文字通り八つ裂きにされ、その瞬間、狂ったように笑い声を上げた。朽ちた骸骨の姿が宙に浮かび、次いでばらばらと地に落ちる。死霊は土に返り、後には透明な布だけが残されていた。
無言で、エルは透明な布を見下ろす。あれが本当に母だったものの霊なのか、悪霊が見せた幻だったのかは分からない。だがどちらにしても、エルがするべきことはひとつしかない。
生きる者を殺し、死せる者を滅ぼす。それが暗殺者である自分に課せられた――自分で選んだ、役割。
エルは深く息を吸い込んだ。視線を上げ、透明な布を踏み越えて歩き出す。涙は出ない。滅び、死にゆくものに祈る言葉など、持ち合わせてはいない。
エルの姿は遠ざかり、修道院の奥の闇に溶けていく。後に残った透明な布も、やがて地面に吸い込まれて消えていった。